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(無題)

 投稿者:斉藤キヌ子  投稿日:2010年 2月15日(月)11時05分27秒
返信・引用
     認知症早期発見の目安20
:もの忘れ
1、今切ったばかりの電話の相手の名前を忘れる
2、同じ事を何度も言う、問う、
3、しまい忘れ、置き忘れ、何時も探し物をしてtる
4、財布、通帳、衣類などを盗まれたと人を疑う
:判断、理解力が衰える
5、料理、片付け、計算、運転のミスが増えた
6、新しい事が覚えられらい
7、話のつじつまが合わない
8、テレビの内容が理解出来ない
:時間、場所が解らない
9、約束の日時や場所を間違えるようになった
10、慣れた道でも迷う事がある
:人柄が変わる
11、仔細な事で怒りっぽくなる
12、周りへの気づかいが無くなり頑固になった
13、自分の失敗を人のせいにする
14、"この頃様子がおかしい”よと周囲から言われる
:不安感が強い
15、ひとりになると怖かったり、寂しかったりする
16、外出時、持ち物を何度も確かめる
17、"頭が変になったと本人が訴える
:意欲が無くなる
18、下着を変えず、身だしなみをかまわなくなる
19趣味や好きなテレビ番組に興味を示さなくなる
20、ふさぎ込んで何をするにも億劫がり、いやがる





 
 

節分の思い出

 投稿者:斉藤キヌ子  投稿日:2010年 2月 8日(月)11時01分37秒
返信・引用
  何十年も前の私が子供だった頃の、節分豆まきの夜は
先ず、鰯の頭を炭火で炙り、乾燥させておいた枝豆の
木に、その鰯の頭を射して家の門口に挿した。母が、
大豆をホウロクで煎り、其の豆を一升桝に入れ神棚に
供える。父が一升枡を抱え神棚に向かって”えびす、
大黒、福の神、明けの方から舞込んだ、福は内福は内
鬼は外鬼は外、鬼の目玉ぶっ潰せ”と叫んで豆をばら
まく。次いで兄達が福は内鬼は外を叫びながら各部屋
に豆をまいまき、私と弟が競うように豆を拾った。
夕食は何時もの麦ご飯ではなく、純白の白米のご飯と
美味しい汁物と大きな切り身の焼き魚などのご馳走で
あった。母は拾い残した豆が有ると、ごろごろすると
各部屋を掃き布団を敷いた。そんな昔の事を懐かしく
思いだされる。
オリーブではチラシを千切ったものを丸めて豆にして
男性の職員が鬼になり、チラシの豆を思い切って投げ
つけた、が楽しい豆まきだった。

大豆
 

不愉快な挨拶

 投稿者:斉藤キヌ子  投稿日:2010年 2月 1日(月)10時16分53秒
返信・引用
  先日バス停でバスを待っていたら、"大丈夫ですか”と声を
掛けられた。私は”何で大丈夫ですか等と言うのですか”
と問い返した。すると同じマンションの住人だから、と言う。
老いぼれたと見えた私に対する挨拶であるが、せめてお元気
ですか、とか声を掛けられたのであれば良かったのに・・・
すると今度は何時もスーパーで良く顔を会わせる老年の男子
が、自転車でスーと寄って来て"病院ですか”等ときく。私は
反射的に”いいえ銀行です”と言い返した。傍から見ればもう
83才の女が老いぼれに見えるのかも知れないが、なんとも
不愉快な気分であった。天気が良かったので外出したのに、
言葉と言うのは如何に大切か、つくずく考へさせられた。
 

にしん

 投稿者:斉藤キヌ子  投稿日:2010年 1月25日(月)11時38分42秒
返信・引用
  春の魚である”にしん”が生協の魚売り場にパック詰め
で売られていた。北海道にしんと銘打ってあり鱗もぴか
ぴかであったので早速手にした。
”にしん”といえば我が故郷では生のにしんのことを、
”かどいわし”と言い、干物をニシンと言うのである。
然し東京では生ものを"ニシン”干物を身欠きニシンと
呼んでいるが此れが正解だとおもう。春先雪解の頃に
になると目が真っ赤になった”たどいわし”が魚屋の
店頭に並ぶ。雪国では生の魚は珍しい。七輪の炭火で
焼くさかなは一段と美味しい。当時は冷蔵庫などん無
かったから生の魚は珍しいのであった。偶に数の子が
入っているとなんだか儲け気分になった。
今朝食べたニシンはまだ脂みが少なかったが、さっぱり
とした味だった。春告魚とも言われている。もう直ぐ春。
北海道に又にしん豊漁のニュースが来ればと祈るのみだ。+


にしん
 

演奏会

 投稿者:斉藤キヌ子  投稿日:2010年 1月20日(水)09時59分20秒
返信・引用
  1月16日のメサイアの演奏会は素晴らし演奏でした。
懐かしい顔の方達が何人か出演されておられ、貴方の
姿もソプラノの前列にお見受けしました。総勢160
人程の熱唱でした。厚みのある合唱で心地良く聴かせ
いただきました。最後まで声量を保たれていたのは、
流石でした。
あの美しい合唱に嘗て私も其の1人として歌っていた
事があるなんて不思議に思えました。
それにしても、郡司先生のあのエネルギッシュな指揮
は・手術されてまだ3年程だとゆうのに、全く頭が下
がります。先生の音楽に賭ける情熱ですね。
昨年末、テレビ朝日のBSでベートーベンの”第九”に
纏わる話題が放映されましたが、多方面で活躍されて
いますね。
現在私は清水先生の女声合唱で歌っていますが、皆が
高齢になって来て演奏会をする意欲がありません。
一寸物足りないのですが私も長時間立っておれません
ので、今は楽しく歌っています。
美濃谷さんは出来る限り長く歌い続けて下さいね。又
演奏会を聴きに行きたいと思っています
但し夜の演奏会は息子同伴です。
 

寒中お見舞い

 投稿者:斉藤キヌ子  投稿日:2010年 1月18日(月)10時16分23秒
返信・引用
  ご丁寧に寒中お見舞い有難うございました。私の寒中見舞いは
市販されている私製ハガキに文章が印刷されている物に、日付
けを書いたものなのです。
因みに私も介護保険のデーサービスで現在パソコンを教えて貰
っています。機器の操作は出来ないのですが、文章を打ち込む
所からです。文字はローマ字読みで打ち込んでいます。この文
章は其のパソコンです。
祥ちゃんと言うと私は町名が本郷町と称されていた頃の事を思
いだします。私の母と貴方の祖母は仲の良い姉妹で、行ったり
来りしていました。私は何時も母に連れられて、本郷町の玉川
家へ行ったものです。ですから玉川家の人達とは仲良しでした。
母を亡くした私は本郷町へ好く行ったものです。
貴方の祖父母や両親にはとても良くして貰い、特に貴方のお父
さんには随分援けて貰いました。
今年の夏の墓参りには、時間を作って是非とも玉川家の仏前に
線香を手向けたいと思っています。
貴方のハガキの毛筆の文字は勿論のことん乍、あの絵は素晴ら
しいですね、猪苗代湖が見えてきます。
末筆ながら寒さ厳しき折から御身お大切にね。

   在りし日をあれこれ想う寒の入り
 

(無題)

 投稿者:斉藤キヌ子  投稿日:2010年 1月15日(金)09時57分15秒
返信・引用
  愛ちゃんを偲んで
  老い逝きし竹馬の友は生れし夏
 

折り紙

 投稿者:斉藤キヌ子  投稿日:2010年 1月15日(金)09時50分45秒
返信・引用
  折り紙が私はあまり好きでない。職員さん達が折り紙入れの箱を
持って来て図鑑を見ながら折っているけれど、私はその図鑑の見
かたが全く解らない。だから嫌いなのである。
しかし1月13日に職員の方がセーラー服の折り紙を折られたの
を見て、私も折りたくなり教えて貰った。一枚の千代紙でセーラー
服とスカートが出来るのが、とても面白かった。

    折り紙に頭を寄せて手毬歌
 

竹馬の友 逝く

 投稿者:斉藤キヌ子  投稿日:2010年 1月13日(水)11時17分10秒
返信・引用
  竹馬の友である親愛なる“愛ちゃん”が逝ってしまった。年齢から言っては
仕方ないのだが、がっかりしてしまった。長年、年賀状をやり取りしお互い
の無事を確かめ会っていたが、ここ3年程連絡が取れなくなっていた。電話
をしても其の電話は使われていません、と言われてどうした物かと迷っていた。
”愛ちゃん”は子供がいなかったので,甥の家で一緒に暮らしていた。私と同じ
頃に東京に出てきて居たので好く長電話を楽しんでいた。
”愛ちゃん”とは小学校からの友達で殆ど毎日の様に彼女の自宅に遊びに行って
いた。彼女の家は裕福でラジオや蓄音機や雑誌など沢山あった。我儘で自分勝手
な所が多かったが、何故か憎めない人だった。それは大らかで他人の悪口は言わ
なかったからかもしれない。日本女子大学を卒業し地元の高校の国語教師となり
結婚したが、子供がなく優しい甥夫婦家族と自分の趣味を楽しんでいた。私は、
その甥の方の名前を覚えて居たので手紙をかいた。すると返事が来たが悲しい、
最悪の報せであった。あの”愛ちゃん”が3年も前に心筋梗塞で亡くなった、とは、
全く予期せぬことであった。私は”愛ちゃん”のご冥福を祈りますと返事を書き
投函した。もう我々年代になればこうした体験は珍しくないのだがなあ、
同級生は、皆満83歳である。
 

初電話に寄せて

 投稿者:斉藤キヌ子  投稿日:2010年 1月11日(月)11時22分54秒
返信・引用
       初電話に寄せて
平成22年1月2日故郷の知人から初電話のベルが鳴った。
“年賀状有難う、俺な年末に一ヶ月半程入院していたもの
だだから、年賀状をだせず失礼したので電話で挨拶をして
いるのだ“とゆう事だった。もう97歳になったぞとのこと
それなら100歳迄頑張ってと言ったけど、それでは3年き
りないので100の壁を突破してと言えば良かったと後悔し
た。
思えば人と人との関わり会いは、誠に不思議なものだと思う。
全く見も知らない人との出会いが有る。昭和43年私の親友
である麗子さんから、仕事を頼まれたのだけど都合で行けなく
なったので、代わりに行ってくれないか、と私の家を訪ね
てきた。私も其の頃は子供にても懸からなくなっていたので、
彼女が持ってきたメモを頼りに緑町のお宅に伺ったのが始まり
である。其れから毎日3時間程事務処理をし、おおらかな気の
良い奥様とお茶のみ話をするのが、とても楽しみでした。
其のうち印刷会社に勤める事を勧められ、私も長男が高校、次男
が中学を卒業するので,勧められる儘に勤める事とした。
始めは中々大変だったが仕事に馴れてくると、事務だけでなく
何も可もやらせられたが、それらを熟せる様になり、仕事に遣り
甲斐を感じ充実した日々であり、この時期が私の一番輝いていた
時だったと思う。この会社は地方では印刷工場では一番大きい会社
で、従がって取り扱っている物も、市、町、村誌や、広報誌などと
学術的な物が多く、会社に出入りする方々も、知識、学識のある人
が多かったので大いに啓蒙された。お茶だしをしながら,その方々と
話を合わせるのも楽しかった。この会社に、14年お世話になったが
金銭には換えられぬ大いなる知識を得たことで、今の私が有るとおもう。
印刷会社とゆう所は情報が逸早く入ってくる。それで社会にも眼が向
いてゆく。田舎者の私が何の臆する事も無く東京の水に馴染めたのも
此れが原点と斉藤様に感謝している。

   故郷の訛り懐かし初電話
 

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